想念との自己同一化
この記事は2019.7.25、19:00に更新いたしました。
更新内容:記事を推敲いたしました。
そして、この
あぁ、情けなや、特にマインドフルネスを提唱している昨今の仏教系の指導者は、このことに全く気がついていない。
しっかりせんかい!
ママゴトじゃあるまいし。
仏教とは、仏陀(ぶっだ=悟った人)の教えである以上、その全ては悟りについてのものであるはずなのだ。
そして自己意識の眠りを打破するために必要な取り組みとは、あえて気づきという言葉を使って表現するなら、気づきの方向性の変換なんだ。
つまり、通常の生活におけるような、
だけではなく、
の方向性もが必要となってくる。
気づきをその源に留めておくことと言い換えてもいい。
しかし、人間が通常の生活をしながら生きていくためには、対象物への気づきも必要であることから、常に自己意識の目覚めている人間には、常に2つの次元における気づきが共存していることとなる。
肉体/精神の次元 意識の次元
ラマナ・マハルシが言うところの「私は誰か?」という問いかけ、
グルジェフが言うところの自己想起、
ニサルガダッタ・マハラジが言うところの純粋な気づき、
プンジャジが言うところの気づきそのもの、
OSHO(オショー)が言うところの観照者・・・
これらの言葉は皆、この自己意識そのものを直覚させるために生み出されてきたものなのである。
ここで、もう一度言おう。
そして、
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